居合だましい

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第1話 序章『初雪』

雪の匂いがする──。
民治丸たみじまるがそのことを告げると、を洗う手を止めて、菅野すがのは青い空を見上げた。

「おがしな子だごど。お前は目に見えないものの匂いがするのが?」

母にそう言われると、たしかに自信はない。
でも、今、たしかに匂ったのだ。

その日、空は突き抜けるように高く、どこまでもんでいた。
お陽さまも、まぶしいぐらいに輝いている。
甑岳こしきだけ紅葉もみじは、少し色づいたばかりで、明神みょうじんの森の木々は、まだ葉も落ちきっていない。

「初雪が降りるまで、あと半月か、ひと月か……。屋敷の雪囲いもまだすべて終わっていないし、お前の予想が当たったら大変です」

菅野は微笑ほほえみ、冷たい清水すずの中に菜っ葉をひたす。
漬物の支度も、急がねばならない。
ここの水は一年中冷たいが、ここ数日はしびれるような冷たさだ。


くるくると忙しそうに働く母を見て、民治丸は不思議に思う。
難儀な作業をしているのに、どうしていつも楽しそうなのだろうと。
菅野は、周囲がいくら下女げじょをおくようにとすすめても、首をたてらなかった。

「親子三人のつつましい暮らしだもの。下男げなん三郎さぶろうがいでくれるだけで十分です」

そう言って食事の世話から洗濯、水仕事などの一切を、自らの手で行った。
幼い民治丸は少しでも役に立てればと思い、母の後ろをついて歩くも、任せてもらえることはほとんどなかった。

「男子たるもの、そげなことはしなくていいのです」

さっきも、菜っ葉の土を払おうと持ち上げただけで、すぐに怒られてしまう。
民治丸は仕方なく、傍らに腰かけ清水の奥をのぞき込んだ。
奥で、砂が動いている。
ふくふくと水が湧き出てくる様子を見ていると、水そのものが生きているかのようだ。
母の細くて白い指が真っ赤になっていくのを見ながら、民治丸はそっと母の背にほほをつけた。

「どうしたのですか。ほら、離れないと濡れますよ」

民治丸はいっそう強く、母の背に頬をつけた。
温かくて柔らかい母の匂いがした。

民治丸が生まれたここ林崎村は、最上川に通じる三沢川からの支流がいく筋も流れており、清らかな清水が、あちこちから湧き出る肥沃な土地だ。
その大切な水源は、誰が言い出したわけでもなく、飲み水につかう清水、洗濯につかう清水、野菜を洗う清水、お産のときの後始末を流す清水……と使い分けられている。
ときに村の集会所と化すこれらの場所で、村の女たちが集い、世間話をするのを傍らで聞きながら、幼心に、我が母の格別な美しさを誇らしく思う民治丸であった。

他の女たちと母は、何かが違う。
もちろん父の役職や身分ということもあるだろうが、それだけではないような気がした。
居振いふいや、話す言葉も、村の女たちとはどこか違うような気がする。
そのことを母にたずねると「そなたの父に恥ずかしくないよう、努力しているからです」という答えが返ってきた。
その幸せそうな笑みの意味を、よわい6つの民治丸は分からない。
だが、母が父のことを心からしたっていることだけは理解できた。
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民治丸の父・浅野数馬あさのかずまは、もともと、京にて朝廷ちょうてい近衛このえの士として仕えていた。
応仁おうにんらんから続く戦国の世の動乱で職を失い、京を離れることになった数馬は、仕官先を探しつつ諸国を旅していた。
その途中、楯岡城主じょうしゅ因幡守満英いなばのかみみつひでに出会い、お城へ呼ばれた際、一日中話に花が咲いたという。楯岡の殿様にすっかり気に入られた数馬は、仕官を決め、この地に住むようになった。それが八年前のこと。

数馬はもともと慎ましい性格で、人より前に出て己の主張を押し通すようなことはしなかった。京の都で見聞きしたことを問われれば答えもするが、自ら知識をひけらかすこともない。その奥ゆかしさを楯岡の殿様は信用したのだ。
温和おんわな性格と、歌うように口から出てくる都の言葉が、この地の者にはとても優雅ゆうがに映ったのだろう。
いつも身に着けている矢立て(筆入れ)もいきだった。
当時、お方様かたさま付きの侍女じじょであった菅野も、一目で数馬に心を奪われたのだ。

もちろん、そんな数馬のことを快く思っていない者もいた。
本人がいくら控えめにしていても、殿様のお気に入りというのがやっかいだったし、城内一じょうないいちの美女と名高い菅野すがのめとったことも、周囲の嫉妬しっとまねいていた。
とくに最上家からのお目付け役でやってきた者たちは、何かにつけて数馬を目のかたきにした。
城内で数馬は、いっそう実直に、つつましく行動するよう心掛けた。
そしてなるべく美しい言葉をつかうように心を配った。
妻の菅野にもそう説き、菅野もそれに応えようとした。
やがて生まれた民治丸にも、二人の努力は引き継がれている。
民治丸本人は、とんと気が付いていないが。


急に日が陰り、風が出てきた。
青々とした菜っ葉が山積みにされたかごを、よいしょと持ち上げ、屋敷に戻ろうと歩み出したとき、菅野と民治丸の前に、二つの人影が現れた。

ととさま!」

城勤しろづとめを終えた数馬が、下男の三郎をともない帰ってきたのだ。
民治丸の姿を見止めると、数馬は大きく手を挙げた。

「父さま、おかえりなさい!」

待ちきれずに父の元へ走っていく民治丸を、菅野は微笑んで見ている。
すぐに父と息子の影が重なった。幸せな景色だ。

浅野家の屋敷から楯岡城までは20町(約2キロ)ほど。
左前方に甑岳こしきだけを眺めながら緩やかな曲がり道を進み、羽州街道うしゅうかいどうに入ったら右折する。
ほどなく湯沢村が見えてくる。
大きな沼とつつみを過ぎれば楯岡の城下町、お城はもうすぐだ。
そんな道のりを、数馬は毎日往復している。

「旦那様、おつとめ、ご苦労様でございました」
「うん、お前こそ、この時期の水仕事は難儀であろう。いつもありがとうな」
「はい……」

敬愛に満ちた菅野の目を、数馬はしっかりと受け止める。
真っ赤な手を取り、優しくさすった。

「冷たい手だ」
「すみません……」

恥ずかしそうにうつむく母の、もう片方の手を、民治丸は取った。

「母さま、こうすれば温かくなります」
「まぁ!」

民治丸は、母の手を取ると、自分の着物のあわせにすべり込ませた。
自分でそうしたくせに、そのあまりの冷たさに飛び上がる。
そんな民治丸を見て、三郎までもが笑った。

北風をけるように、親子三人寄り添い、屋敷までを歩く。
三郎は菅野から大きな籠をあずかり、その後ろに続いた。

今宵こよいは明神様に出かけてくる。遅くなるので、お前は先に休みなさい」
「そうでしたね、今日は一日ついたちでした。神主さまとの囲碁いご勝負、今はどちらが勝っているのですか?」
「43対42で、神主さまが勝っておる」
「まぁ、相変わらず接戦ですこと」
「見てなさい。今日で追いつくからな」

林崎明神の神主と数馬は、月に一度、碁の対局をするのを楽しみにしていた。
数馬がこの地を訪れてからというもの、欠かさず続けてきたことのひとつだ。
毎月一日、神主と膝をつき合わせ、わずかばかりの酒を飲み、この地や、都への思いをせる。貴重な息抜きの時間であった。

この日は、民治丸にとっても楽しみな一日だった。
夜更かしをして父の帰りを待ち、その日の勝負の流れを教えてもらうのだ。
温かい膝の上に乗り、少し興奮した様子の父を見るのも好きだった。
いつか自分も父の相手を……そう思うと心が浮き立つ民治丸である。

(つづく)