居合だましい

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第3話 第一章『形見草かたみぐさ

「ごらん、民治丸たみじまる。今日の甑岳こしきだけはいっそう美しいぞ」

縁側に腰かけ、数馬かずまは夢中で絵筆を握る。
大きな目を、らんらんと見開いたり、きゅうっと細めたりと、忙しい。
この一瞬を、もらさずき写そうとしているかのようだ。
しなやかに動く絵筆に向かって、横から小さな手が伸びてきた。
菅野すがのが慌てて幼子を抱き寄せるも、間に合わない。
完成間近の風景画に、ミミズのような線が、つぅーっと入ってしまった。

「申し訳ございません。目を離したばかりに」
「かまわぬ。さすがは、わたしの子だ。よしよし、おまえも描いてみたいのだな」

数馬は幼子をひざに抱き、その小さな手に絵筆を握らせた。
とたん、絵筆は空中をいったりきたり、ぶんぶんと振り回されて止まらない。

「これ、民治丸、やめなさい! それはそうやって使うものではない!」

制しようとすればするほど、面白がって振り回す。
きゃっきゃと、はしゃぐその顔が、あっという間にすみだらけになった。
なんとか絵筆を取り上げたときには、数馬も菅野も墨だらけ。
ちょうどみずみから戻った下男げなん三郎さぶろうが、黒い3つの顔に驚いて、おけを落としてしまった。

「もぉー、だんなさま、なにしったんですか、もぉー」

ふくれて、再び水を汲みに行く三郎を見て、親子三人、笑った。
穏やかなときが流れていた。
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「わが子よ。さむらいであっても、いや、侍であればこそ、美しいものをたくさん見るのだぞ」
「美しいもの……ですか」
「ああ。燃え立つ山の紅葉を見て、美しいと思える心があれば、人は生きていけよう」
「おまえさま。民治丸にはまだ」
「分からないか。そうだな。まだこんなに小さいのだからな」
「えぇ」
「この子が大きくなったら共に旅をしてみたい。世の中のありとあらゆる美しいものを見せてやりたいのだ」
「きっと喜びます」
「京の都を見たら、どんな顔をするだろうな」
「そこらじゅう走り回って、たいへんでしょう」
「ははは、そうだな。あとは、伊勢詣いせもうでもいい」
「お伊勢さま、ですか!」
「菅野、そなたも行きたいか」
「はい」
「では、約束だ。いつか、きっと。……おーい、早く大きくなるのだぞ。どこまでも強く、優しい子に育っておくれ、民治丸──」



───「民治丸さま、民治丸さま! 早ぇぐ起きてくだせぇ!」

体を揺り起こされ、民治丸は目を開けた。
丸ぁるい目ん玉が二つ、すぐ上で光っていた。

「……うわ、三郎!」
「やっと起ぎだな。早ぐ支度したくしねぇど」
「んんん……朝がら、うるさいなぁ」
「んだって、遅れるど、刑部ぎょうぶさまがら、ごしゃがれる(怒られる)」
「今日は剣術けんじゅつ稽古けいこは休みだ。行がねくてもいい」
「あー、ウソつぐど、天狗てんぐさまがら、ちょんちょこ、ちょん切られるぞ」
「ほだな子供だまし、俺には通じねぇ!」
「したって、まだ、オラよりゃっこいべ」
「なんだと?! 待で、こら、三郎!」

民治丸は、布団からき、三郎を追いかけた。
追いかけっこは勢いあまって、縁側えんがわに並べてあったかごをふっとばしてしまう。
干してあったわらびが、辺り一面に散らばった。

「朝からどたばたと、何を走り回っておるのです! 父上さまが今のそなたたちを見たら情けなくって泣きますよ!」
「したって、母上さま。三郎がわたしをバガにするのです」
「してねぇ! 民治丸さまこそ、稽古、さぼる気だべ!」
「そうなのですか、民治丸」
「……違います」

民治丸は逃げるように目をそらした。
父・浅野数馬の死から七年が過ぎ、民治丸は十三歳になっていた。
あれほど気をつけていた言葉遣ことばづかいも、村の子らとあまり変わらなくなっている。
菅野はそのことを悲しく思う。
同時に、父を亡くしてもなお、この村で生きるためには必要な変化であるとも思うのだ。

民治丸は、この辺りでは一番の剣の使い手と言われる東根刑部太夫ひがしねぎょうぶだゆうのところに、剣術の稽古に通っている。
飯を食うのも、眠るのも、剣を振るのも、すべては仇討あだうちのため──。
そんな暮らしを長いこと続けている。
小さな両肩に、その重責じゅうせきが日に日にのしかかっていた。

「そなたはもう、十三になるのです。父、浅野数馬の名に恥ずかしくない生き方をしなければなりません」
「父上のごどなんか、もう顔も覚えでねぇ」
「その口のききかたは何ですか!」
「したって……思い出しだぐもねぇんだっ」
「待ちなさい、民治丸! ちゃんと稽古には行くのですよ!」

母の叫び声を聞きながら、民治丸は外へ飛び出した。
木刀を持たされた三郎が、慌てて追いかけるも、民治丸の背中はずっと先にある。

「……ととさま……なして、なして、死んだんだ……」

夢の中の父の記憶はいつも温かく、驚くほどはっきりとしている。
その声も、色も、音も、感触も、匂いさえちゃんと分かるのに。
起きている時に、いくら父を思い出そうとしても何も浮かばない。
いや、思い出されるのはひとつだけ──
明神みょうじんの森で雪の中に倒れていた、あの冷たい姿だけだった。

(つづく)