居合だましい

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第26話 第二章『目を閉じて見える光』

民治丸は目を凝らし、辺りを見回した。
だが、人の気配は見つけられない。
この森にいるのは、まぎれもなく民治丸一人だった。

(おれの勘違いか)

頭を振り、竹筒に水を汲もうとかがんだ時、水面に何かの陰が走った。
慌てて背後を振り返る。
だが、いくら目を凝らしても、誰もいなかった。

(いや、誰か、いる)

多数の目玉に全方向から見張られているような気がして、ふいに恐怖が襲った。
体中の毛穴が開いていくのが分かる。
脇の下に、じっとりと嫌な臭いの汗がにじんだ。

「──誰だ! 隠れでねぇで、出でこいっ!!」

精一杯の大声を出してみたものの、震えるその声はまるで自分の声に聞こえない。
重ねて大声を上げたが、樹々はサラサラと揺れるだけで、鳥さえ鳴かなかった。

(……あぁ、ちくしょう……だめだ、だめだ、だめだ)

民治丸は降参したように天を仰いだ。
いつのまにか太陽はてっぺんまで上り、木の葉の間から緑色の陽光が真っすぐに差し込んでいた。
今日は明るいうちに森のもっと奥まで探検してみるつもりだったが、すっかり気持ちがくじけてしまった。

(戻ろう)

沐浴で濡れた体はすっかり乾いている。
民治丸は着物を羽織ると、帯を結ぶのももどかしく歩き出した。
水を満たした竹筒が、腰のあたりでちゃぷちゃぷと音を立てるたび、どんどん気が滅入っていった。
──おれは恐怖から逃げたわけではない、拝殿の中でも鍛錬の続きはできる──そう心で繰り返しても、全部が言い訳に感じる。

帰り道は、とても、とても、長く感じた。
行きは、泉までの道を四半時(約30分)で駆けてきたつもりだったのに、すでにずいぶんと長い時間歩いている気がする。
それでも走ることはせず、重い足を前へ前へと進める。

ようやく御社おやしろが見えてきたとき、お日様は西へだいぶ傾いていた。
やはり、ときの感覚がおかしい。
毎日こうやって一人で過ごすうちに、ときだけではなく、日にちすら分からなくなってしまいそうだった。
民治丸は立ち止まり、思案する。
足元の細い枯枝に目が留まった。

(よし。昨日と、今日の分、だ)

同じぐらいの長さの小枝を二つ拾い、民治丸は頷いた。
拝殿の隅に小枝を毎日一本ずつ積み重ねていき、暦がわりにしようというのだ。
我ながら悪くない考えに思えて、少しだけ元気になる。
一度だけ振り返り、民治丸は森を抜けだした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あたりに人の姿はない。
拝殿の戸も開け放たれたままだった。
民治丸は一礼し、中に入る。
そして静かに拝殿の戸を閉めた。

拝殿の中は、日中でもひんやりとして薄暗い。
民治丸は奥に祀られているご神体に向かい頭を下げた。
神様の御姿は見えないが、気配を感じることはできる。
その圧倒的なものを受け止めながら、民治丸は板敷に座し、静かに目を閉じた。

どれほどの間、そうしていただろう。
外では、お日様が最後の火を燃やすように輝いていて、その熱が拝殿の隅をわずかに照らした。
拝殿の中で目を閉じていても、陽が陰っていくのが分かる。
ときのうつろいも、自分の周りの熱も、ちゃんと感じることができた。
ほどなく、また、夜が来る。
真っ暗で、孤独な夜だ。
そのことに思い至ると、急に心細さが増した。

(このまま朝まで目を閉じていられたらいいのに)

ひたすらに呼吸を繰り返し、頭に浮かんでくる思考に構わずにいると、次第に雑音も無くなった。
代わりに、体の中のあちこちから音が聞こえてきた。
さーっという音や、どくんどくんという音、きーんという音、ち、ち、ちっという音。
それらは少しだけ民治丸を安心させた。

ふと、瞼の裏に光のつぶが浮かんだ。
そのきれいな光の奥に何かが見える気がして、民治丸は眼球に力を込める。
瞬間、つぶは泡のように消えてしまった。
民治丸は思わず目を開けた。

(今のは何だったのだ?)

暗闇の中、何度も目をしばたたかせる。
すっかり夜のとばりは下りていたが、豪雨だった昨夜と違い、完全なる闇ではない。
欠けた月が照らすおかげで、ほのかに視界が明るいのだ。
今の民治丸には、そのことが何よりありがたかった。

それにしても、今日は一日中、分からないことだらけだった。
森の中で耳にした何者かの声、感じたのに見えなかった無数の視線、そして今、瞼の裏に見た光。
すべては、己の中にある恐怖心が作り出す幻なのか。
だとしたら、それらを消すことができるのも自分なのか。
民治丸は分からなかった。
叫びたくなる気持ちを抑えるように、両のかいなを抱いた。

──そうだ、ひたすらに己と向き合うのだ、民治丸。

ふたたび、あの声が聞こえた。
森で聞いた時よりも深く、しっかりと、その声は民治丸に届いた。

「うるさいっ! だまれ!」

民治丸は立ち上がり、木刀をとった。
拝殿の闇の中、めちゃくちゃに剣を振り、叫ぶ。

「おれに命令するな! 顔を見せろ、卑怯者!」

民治丸の狂ったような絶叫は、穏やかな夜の空気を裂き、明神の森を下りて里にも届きそうなほどだった。
驚いた晩鳥ばんどり(ムササビ)が、騒がしく樹々を行き交う。

「負げねぇぞ! おれは負げねぇぞ! うわぁぁーーーっ!」

拝殿の壁にぶち当たり、木刀が弾き飛ばされる。
乱れた息を整えながら、民治丸は再び木刀を握った。
そして、ゆっくりと正眼に構える。
今度は、まっすぐに、ただまっすぐに剣を振った。

(負けてたまるか……負けてたまるものか)

すべては父の仇討ちのため、神に必殺の剣を授かるため──民治丸の孤独な闘いは、始まったばかりだった。

(つづく)