居合だましい

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第27話 第三章『神が与えし剣』

田んぼが、苗色なえいろから黄金こがねに色を変えようとしている。
今年の夏はいつにも増して暑く、短かった。
澄んだ空にトンボが行き交うのを眺めながら、菅野すがのは、たしかに季節が移ったことを知った。

清水すずまでの道、先を歩く菅野を、ひょこひょこと三郎が追いかける。
左目を覆うように巻かれた白い布が痛々しいが、足取りはだいぶしっかりしたものになっていた。

「菅野さま、そげなおもだいもの、おらが持ぢますよぉ」

「いいんです、半分こずつにしましょう」

芋の子が山ほど入ったざるを、菅野は決して渡さない。
三郎は、菜っ葉が入った背負子しょいこの背中を丸め、へぇと頷くしかない。
半分ずつと言いつつも、菅野の笊の方が明らかに重そうだ。
この夏の酷暑のせいか、民治丸がいない寂しさなのか……いっそう痩せてしまった双肩が、三郎は気になった。

このところの二人は、冬場に備えて、収穫した食べものをきれいに洗い、干したり、塩に漬けたりと、毎日忙しく働いていた。
常よりはだいぶ早い冬支度だが、今の菅野たちには必要なことであった。
なにせ、いまここに民治丸はいないのだ。
頼りの三郎も、まだ本調子でないことは、菅野が一番よく分かっていた。

民治丸の本願成就まであと十日余り。
果たしてどんな結末が待っているのかは分からない。
だが、何があっても、なくても、民治丸の帰りをしっかり二人で待つ──菅野はそう心に決めていた。

「いがったぁ、今日はまだ、誰も来てねぇようです」

「さぁ、さっさと済ませてしまいましょう」

へぇ、と答えながら、三郎は背負子を下した。
清水に笊を浸し、菅野もひとつずつ芋の子を洗い出す。
手を入れた清水からも季節の移ろいを感じた。

「ずいぶんと水が冷たくなりましたね」

「へぇ。手ぇ、しびれます」

「三郎はまだ無理をしてはいけませんからね」

「大丈夫だぁ。おらは丈夫だがら」

大きな口で元気よく、三郎は言った。
清水で洗ったばかりの菜っ葉から、滴がきらきらと落ちた。


野菜を洗うため清水に通うとき、二人はなるべく村の女たちがいない時間を選んで行くようにしていた。
そうするようになったのは、ふた月前ぐらいから、だったか。
意地の悪い目で見られるのはいつものことで、そんなことは気にもかけない菅野だが、ある日、女たちの噂話が耳に入ったときは様子が違った。
会話を聞き、体が徐々に震えだしたのだ。
作業の途中なのに、野菜も放ったままその場から逃げ出してしまった。
さすがの女たちも不思議そうに、そして少し気の毒そうに、二人を見ていた。

女たちが話していたのは「夜な夜な森の奥から叫び声が聞こえる」という噂だった。
それは、苦しそうな男の声だったという者、気がふれたかのような声だったという者、人ではない何かの絶叫だったという者……皆、一様に恐ろしいと囁き合っていた。
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その場にいる、菅野と三郎だけは分かっていた。
その絶叫は、御社に籠っている民治丸の声だということに。
何も言わなかったが、菅野は耐えきれず、逃げ出したのだ。

その夜、菅野は夜中にとこを抜け出し、一人、明神さまのもとへ向かった。
仙台道を北へ進み、一本松を過ぎれば、左手には明神の森が広がる。
夜の森は不気味に真っ暗な口を開けていた。
その口の中に入っていこうか逡巡しゅんじゅんしていたとき、くだんの絶叫が耳に届いた。
菅野は弾かれたように駆け出した。
声のする方へ、暗い森の道を、全力で上っていく。
途中、何度も転び、提灯の火も消え、着物をひっかけ破いても、菅野は足を緩めなかった。

(民治丸! あぁ、民治丸!)

息を切らし、髪を振り乱し、暗闇の森を菅野は駆けた。
最後の石段を上り切った時、神社の前に人影があった。

「……神主さま……」

神主は何も言わず、菅野の前に立った。
細い双肩に手を置き、静かに首を振ったのだ。
その手には、優しくも有無を言わさぬ力がこめられていた。

「帰りなさい」

「神主さま、お願いです、一目、一目あの子に」

「なりません」

「あぁ、どうか……」

「しっかりしなさい、菅野どの!」

低く、だが強く、神主は声を張った。
瞳の奥には熱いものがてらてらと光っている。
神主さまも辛いのだと、菅野は知った。

「民治丸は闘っているのです。恐怖と、己の弱さと。我々には祈ることしかできません。あなたも分かっているはずです」

声を出さずに菅野は泣いた。
そうしている間にも、民治丸の狂ったような絶叫が、拝殿の中から聞こえてくる。
心臓が裂かれるようだった。
菅野は胸に手を当て、祈る。
それしかできないことは痛いほど分かっていた。

どれほどの間、そうしていたのだろう。
民治丸の叫び声が止んだ。
代わりに、木刀が暗闇を斬る、ひゅんっ、ひゅんっという音が聞こえてきた。

神主が、もう大丈夫だというように頷いた。
頷き返した菅野の目は、もう取り乱してはいなかった。
ただ、悲しみが増しているように見えた。

「さぁ、もう行きなさい。あなたは、あなたの為さることを成すのです」

菅野の提灯に火を入れ、石段の下まで見送る。
暗闇に吸い込まれていく小さな背中に、神主もまた、祈っていた。

(つづく)