居合だましい

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第28話 第三章『神が与えし剣』

その日も、民治丸は明神の森にいた。
薄汚れた着物に、伸び放題の総髪。
真っ黒に日焼けした顔は、目玉ばかりがぎょろりと白い。
脱いだ着物とふんどしを、いつものように木にかけると、民治丸は胸の前で手を合わせ、静かに湧き水の中へ入っていった。
瞬間、しびれるような冷たさが脳天まで貫く。
それでも、声一つ出さず、流れるような動作で肩まで水に浸かった。

水の中、目を閉じ、呼吸を繰り返す。
こうしていると、色んな感情が毛穴から染み出て、水の中に溶けていくかのようだ。心がしーんと静まり、とても穏やかな気持ちになれる。
そんなとき、民治丸の周りには小魚たちが集まってきた。
くるくると泳ぐかわいい魚たちは、たまに遊ぶようにぶつかってきたりする。
空では見せつけるようにトンビが宙返りをし、森の奥からは歌うような獣の声が聞こえてきた。

民治丸は明神の森が好きだった。
雨の日も、晴れの日も、欠かさず森に入り、小枝をひとつ拾って御社に戻る。
雷が鳴っても、ぎらぎらと陽が照り付けても、構わず森に通った。
百日の間、孤独と闘っている民治丸にとって、森は救いの場であり、自分を保てる唯一の場所だった。
当初はこんな心持ちになれる日がくるなんて、想像もできなかった。
今、ここには、恐怖も焦りもない。
ただ、水と、森と、生き物たち……その中に自分があるだけなのだ。

ゆっくり水から上がる。
やせ細りあばら骨が浮いた民治丸の体を、幾筋もの水滴が伝い落ちた。
見ると、鳥肌が立っている。
昨夜から、また気温がぐっと落ちていた。
寒さに構わず、濡れた体にふんどしだけを身に着け、そのまま木刀を握る。
素振りの音が、気持ちよく森の空気を裂いていく。
いつもやっている一連の稽古だが、最近の民治丸は感覚が違っていた。
呼吸に合わせ、何度も何度も木刀を振り下ろすうちに、木刀が消えて無くなる瞬間があるのだ。
いや、それはちゃんとあるのだが、木刀が木刀で無くなるというか、まるで自分の腕と繋がり、体の一部のような気がする瞬間があった。

最初、そのことに気が付いたとき、(あ、木刀がない)と思った瞬間に、木刀は木刀に戻り、おもわず地面に落としてしまった。
矛盾しているようだが、(消えた)と意識した瞬間、(現れ)木刀に戻ってしまったのだ。
剣の師匠である東根刑部に、よく「無心になれ」「剣とひとつになれ」と言われたが、こういうことなのかもしれないと今頃になって思う。
だが、今の民治丸には、この感覚を持続させることができない。
教えを乞う相手もいない。
この先に進むために、あとは何が必要なのか、日々ひとりで考えている。

日暮れ前、今日もまた小枝をひとつ拾い、拝殿に戻る。
拝殿の隅には、暦がわりの小枝が積んであった。
二本ずつ交互に、やぐらを組むようにして積み上げられた小枝は、すでに民治丸のひざの高さになっていた。
またひとつ、今日の分……九十九本目の小枝を重ね、民治丸は拝殿の中央に座した。

ここから日暮れまでは、瞑想の時間だ。
日々どのぐらいの間、座禅を組んでいるのか正確なところは分からない。
再び目を開けたとき、たいてい辺りは闇に包まれている。
そこに月明かりが差していることもある。
ときの感覚もないまま壁に寄りかかり、そのまま眠りにつくこともあれば、月明かりの下、矢立から筆を出し、水をつけて拝殿の壁に絵を描いて過ごすこともあった。
水で書いた絵は、乾いたら消えてしまう。
だからこそ、おもいきり、何のためらいもなく、書き綴れるのが楽しかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

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ある晩、こんなことも思い出した。
幼い日、民治丸は父の膝の上にいた。
傍らの母は、芋の葉にまったつゆをそっと集め、その水滴ですみっていた。
民治丸は父の膝から降ろされ、正座し、筆を持たされた。
父は、この墨で絵を描け、と言う。

(あれは何のまじないだったか)

覚えているのは、神棚に飾られた笹の葉と、五色の短冊。
母の祈るような顔、そして、父の笑い声だ。

(七夕……そう、七夕だ。字がうまくなるというまじないだったはず)

武士の家に生まれた男児の、剣ではなく筆の上達を願った父。
囲碁が好きで、絵を描くのが好きで、争い事が嫌いで、母がつくるしょっぱいフキの煮物が好きだった。
ひとり目を閉じていると、忘れていたはずの記憶がどんどん甦る。
大好きだった父……今更だが、どうして死ななければならなかったのか。
父が生きていたら、いま、自分はどう生きているのだろう。

民治丸は目を開けた。
今宵、月明かりは無い。
叫びだしたくなるほどの暗闇に、民治丸は一人、いる。
だが、いま、民治丸の心は穏やかだった。

(ここまでくるのに、いっぱい泣いて、いっぱい叫んだもんな)

思い出し、少し笑ってしまう。
空腹に耐えきれず、森で野草を齧り、腹を下したこと。
正体の知れない声に悩まされ、一晩中暴れるように木刀を振った日々。
豪雨と雷で、母のもとに逃げ帰ろうとした最初の夜。
一睡もできなかった夜、父との思い出が溢れてきた夜、母の料理が夢に出てきた夜。三郎の笑い声、幻聴、幻影、なにが本当でなにがウソか分からなくなった日。
民治丸の膝の上に、滴がぽたりと落ちた。
それが頬を伝ってきた涙だと分かると、慌てて着物の袖で拭った。

(泣かない。おれはもう、泣かないんだ)

顔を上げると、拝殿の奥に男が立っていた。
闇の中、その表情は分からない。
白い着物の輪郭だけが、ぼわんと浮かび上がっている。
右手を左の腰に添え、足音ひとつさせず、民治丸に近づいてきた。

(刀か?)

民治丸は、傍らの木刀を手繰り寄せ、正眼に構えた。
一足一刀の間合いに入ると、男は足を止めた。

(……くる!)

先に振りかぶった民治丸が、木刀を振り下ろそうとした瞬間、男は腰から刀のごとく何かを抜き、民治丸の喉元に突き付けた。
勝負は一瞬で決まった。
だが。

(……これは……)

動きを封じられた民治丸が見たのは、剣ではなく、巻物であった。
男が、ふっと笑った。いや、笑ったような気がした。
そして再び闇の中に消えた。

(なにが起こったのだ?)

目の前には、巻物だけが残されていた。
もし刀であったなら、民治丸は落命していたであろう。
民治丸は巻物の綴じ紐を解き、中を開こうとした。
だが、紐はなかなか解けない。
苛立った民治丸は、紐を引きちぎろうと力任せに引っ張った。
おかげで紐は解けたが、弾みで巻物が、ぶぁーっと広がり壁にぶち当たる。
その音が異様に大きく、民治丸は目を閉じた。

再び目を開けたとき、拝殿の中には幾筋もの陽の光が差し込んでいた。
そう、なぜか、昼だった。

(……今のは、夢? おれはまだ瞑想の中にいたのか)

夢の中で、重ねて夢を見ていたことに気が付き、しばし頭が混乱する。
だが、拝殿の壁を見たとき、夢が夢ではなかったことを知った。
そこには、濡れ濡れとした文字が、まるで巻物に書かれたかのように広がっていた。

── 手のうちに 叶わば丈を 長くせよ 一寸なれば 一寸の勝 ──

(これは一体どういう意味なのだ? あの男は……剣の神なのか?)

(つづく)