居合だましい

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第32話 第三章『神が与えし剣』

「少しでも長い刀を、誰よりも早く抜く技、か。……面白そうだな」

「それでは、お教えくださるのですか!?」

「おれの指導は厳しいぞ」

「はい!」

「途中で逃げ出したくなったら、いつでもそうするがいい」

そう言って寿太郎は、ちらりとりんを見た。
りんが微笑ほほえむその横で、民治丸は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「こいづに出来て、おれに出来ねぇわけがねぇ!」

遠くで、キジの鳴き声がした。
ふと、怒ったときの三郎の顔が浮かぶ。
日暮れ前に帰らねば──民治丸は腰を上げた。

「民治丸よ。さっそくだが、最初の稽古けいこだ」

寿太郎の目配せで、りんは表に出ていった。
隣の小屋の戸が開く音がして、また閉まる。
少しして、りんが何かを持って戻ってきた。

「これを開いて水平に持ち、刀を抜くように動かしてみろ」

りんの手から受け取ったそれは“おうぎ”だった。
意味が分からぬ民治丸の前で、寿太郎は、ばっと扇を開いてみせる。
美しい紅花色べにばないろに、トンボが描かれた鮮やかな柄だ。

寿太郎の言われるままに、やってみる。
まずは、ひらいた扇の中心、かなめと呼ばれる部分を親指で軽く押さえ、他の4本の指を美しく揃えて持つ。
手の甲が上になるようにしたら、そのまま扇を水平にすべらせるように動かす。
左手は腰骨に添え、膝は軽く緩めておく。
動き出しの位置は左胸の前からで、乳の高さに沿って円を描くように動かしていく。

「ちがう、もっと、もっと、ゆっくりだ。大きな沼に胸まで浸かっているつもりで、水面の上を滑らせるように、ゆっくり、遠くへ、動かすんだ」

「ちょ、ちょっと待ってけろ、おれが頼んでいるのは逆のことです! 誰よりも早く刀を抜けるようになりたいのです!」

戸惑う民治丸に構わず、寿太郎は続けさせた。
一振りごとに混乱は増し、頭と体が別のものになっていくようだった。
見守るりんの顔も、次第に引き締まっていく。

「ダメだ、ぐにゃぐにゃ曲がってるじゃないか。まっすぐに、美しく線をひけ」

ひじが伸びきる直前に、肩も回り出すだろう? 刀を抜くときと同じだ」

「そうじゃない! 肘は伸ばしきるな!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ほんの数回扇を動かしただけで、全身から汗が噴き出した。
ゆっくり腕を動かしているだけなのに、蓄えていた力がすべて無くなってしまいそうだった。

「息を止めるな、民治丸! もっと力を抜くんだ!」

「……やってます」

「いや、おまえは今、真っすぐ動かそうとして、ものすごくりきんでいる」

「だって、扇をぶらせないためには、力を込めて維持しないと」

「逆だ」

「え」

「だからお前はダメなんだ」

民治丸は唇を噛んだ。
一日も早く強くなりたい。
誰よりも早い抜刀の術を身に着けたい。
その一心で、ここまで来たのに。
今の民治丸に寿太郎の意図いとは伝わらない。
ただ、うまく出来ない悔しさと、理解が及ばぬ歯がゆさに、身震いする民治丸だった。

「今はすべて分からずとも良い。続けるのだ」

しばらく貸してやると言われた扇を、民治丸は腰に深く差し込んだ。
動くたび、矢立にこつんと当たる。
──しっかりしろ、と誰かに言われているようだった。

流木はこのままここに置かせてもらうことにした。
本当は、持ち帰って今晩からさっそく削り出したいと思っていたのだが。
やせ細った民治丸の体に、そんな余力は残っていなかった。

「また明日……お願いします」

深く腰を折り、民治丸はその場を辞した。
りんが何か言いたそうにしているのは、ちゃんと分かっていた。
だが、あえてそちらを見ないようにして、戸に手をかけた。
戸が閉まる寸前だった。

「民治丸。おれは数馬が好きだった」

大切なものを久方ぶりに取り出したような、寿太郎の声だった。
穏やかに響くその声が、どこか父に似ていると、民治丸は思った。
──この人を信じ、ついていく。
ぐっと腹に力を込め、家路を急いだ。

(つづく)