居合だましい

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第37話 第四章『出立』


碁盤ごばんを打つ乾いた音が響く。
黒い碁石から指を離すと、神主は、したり顔で民治丸を見た。
差向う民治丸は、潔く頭を下げる。

「負げました」

「ん、また、わしの勝ちだな」

「神主さまには、結局一度も勝てませんでした」

数えていた碁石を落とし、神主は驚いたように顔を上げた。
一点の曇りもない、澄んだ若い瞳が二つ、そこにはある。
神主はすべてを理解した。

「……行くのか」

「はい」

片手を火鉢にかざし、もう片方は碁笥ごけ上蓋うわぶたに溜めた石を、つまんでは落とし、つまんでは落とし。
その白い碁石は、対局で民治丸から奪ったものだ。

「そうか……せっかく少し、強くなってきたと思ったのに……な」

「次に勝負するまで、もっと強くなっておきます」

「……次、か。んだな」

民治丸の旅は、死と隣り合わせであることを、二人は知っている。
それに、いったん出てしまえば、いつ終わるともしれない旅である。
次──それがいつのことなのか、本当にまた会えるのか、ややもすると押しつぶされそうになる不安を互いの胸に仕舞ったまま、噛みしめるような会話は続く。

「それで、いつだ」

「はい。明朝、発ちます」

「それはまた……」

──急だな、と続けたかったのだろう。
言葉を飲み込むように、神主は目を閉じた。
唇が少し震えているようにも見え、民治丸は戸惑う。
神主は、それから呼吸を三つばかり繰り返した。
再び目を開けたときには、すっかりいつもの明るい声だった。

「まったく、おぬしは。それなら早く帰りなさい。菅野どのがお待ちだろう。こんなところで、わしと碁など打っている場合ではあるまい」

「申し訳ありません」

「……菅野どのは大丈夫か?」

「はい。この日が来ることは分がっていましたから。ただ……」

「どうした?」

「せめてあと半月、峠の雪がすべて消えるまで待ってからでもいいでしょうに、と。その間に、元服などの儀式も急ぎ進めたかったと申しておりました」

「ほんとだな。わしも山越えが心配だ。ここらより雪解けが遅い地域もあろう」

「んでも、神主さま。かたきがいつまでそこにとどまっているのか分かりませんゆえ。一日でも、一刻でも早く向かわねば」

「んだな。それはそうだな」

「元服だって……そんなもの、俺にはどうでもいいんだ。髪を結い直すつもりもねぇんです」

そんな儀式にかける金など逆立ちしたって出てこない──その言葉は、ぐっと飲み込んだ。
浅野家が断絶して以来、武家の矜持は、ずっと胸の中に仕舞ってきた民治丸であった。

「民治丸よ。おぬしの気持ちは分かった。んでも、名は変えねばなるまい」

旅先で浅野の姓を名乗ったのでは、仇討ち相手に先に悟られてしまう可能性がある。
元服の儀式ではないが、姓も名も変え、心機一転、この地を旅立っていきなさいという神主の提案に、民治丸は納得し、頷いた。

「よし。明日から、おぬしは『林崎』の姓をつかうといい」

「林崎……こごらの地名ではないですか!」

「気に入らぬか?」

「いえ……もったいねぇことでございます」

「名は……そうだ、甚助じんすけとしよう。林崎はやしざき甚助じんすけ重信しげのぶ、どうだ?」

「林崎甚助……重信」

「林崎の地をはなはだしく助けるもの……なかなか良いだろう」

「俺が、この地を、助ける」

「そうだ。反対に、この地が、おぬしを助けもする。いいか、忘れるな。おぬしの根っこは、いつもここに繋がっているのだからな」

この地に生まれたことを恨んだこともあった。
いや、恨んだことの方が多かった。
だが、神主さまは、恨みさえも力に変えて、我にこの地を守れと言うのか──。
うまく説明できない感情が、肚の奥から湧き上がってきた。
その熱い塊は、不思議なことに嫌なものではなかった。
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「……では、重信は?」

「重信は、わしの名だ」

「え?! 神主さまの」

「おぬしはわしの息子も同然。どうか、受け取っておくれ」

「……神主さま……」

何を思ったか、神主は白い碁石をひとつ、民治丸の手に握らせた。
不思議そうな顔をしている民治丸に、笑ってこう告げた。

「これはお守りがわりだ」

「お守り?」

「おぬしには言わなかったが……数馬さまも決まって白い碁石で打っていたのだ」

「父上さまが?」

「あぁ。たまには黒の石を使いなされと勧めても、嫌だと言ってなぁ。思慮深く穏やかなお人柄なのに、そういうところは幼子のようだった」

遠い眼差しは、あの頃を思い出しているのだろうか。
神主の目尻に寄った深いしわを見ていると、歳月を感じ、苦しくなる。
──この人と、また再び会えるのだろうか、と。

「民治丸、おまえも、ずっと白い碁石ばかり使っていたな」

「はい。なんでだが……そのほうが勝てるような気がして」

「親子とはおかしなもんだな」

はい、と頷き、民治丸は立ち上がる。
だいぶ日が長くなったとはいえ、春の日暮れは早い。
家で待っている菅野と三郎の姿が目に浮かんだ。

(今宵は三人で枕を並べて眠ろう)

母のことを、三郎のことを思うと、どうしようもなく胸が詰まった。
それから民治丸は、神主が見守る中、明神様に挨拶をし、その場を辞した。
一礼にすべてを込め、あとは振り返らず鳥居をくぐる。
石段を駆けるように下りていく姿を、神主はいつまでも見ていた。
その目に、光るものがあることを民治丸は知らない。

森を下る途中、お地蔵様にも手を合わせる。
父の目に似たお地蔵様は、今日も優しく微笑んでいた。

(どうか、どうか、母上様を、三郎をお守りください)

民治丸はいつも、誰かのことを思い、祈る。
そうやって18年間、生きてきたのだ。
春の生温かい風が、暮れゆく明神の森を揺らす。
樹々の蕾はまだ固い。
民治丸は、愛する者たちが待つ家へと急いだ。




出立の朝。
菅野に持たされた握り飯の包みが、懐でまだ温かい。
ずっとご機嫌斜めの三郎は、こんなときにも民治丸の目を見ようとしなかった。
当然、自分もお供できると思っていた三郎は、京には一人で行くと頑なに言う民治丸を未だ許せないでいた。
旅立ちの時間は迫る。
拗ねて素直になれない三郎に、民治丸は心を込めて最後の言葉を届ける。

「分がってけろ、三郎。おまえには、俺の一番だいじなものを守る役目を任せるんだ」

「一番だいじなもの?」

「んだ。ここに……この家に残り、母上様を──母上様とこの家を、俺が帰るまで守ってくれ。それを頼めるのは、おまえしかいねぇべ」

「……民治丸さま……」

「いいが、三郎。俺は必ず仇討ちを果たして、ここに戻ってくる。男と男の約束だ」

「────民治丸さまぁ~っ」

三郎は泣いた。
大の男が、おんおんと声をあげて泣いた。
堪えていた菅野も、つられて涙する。
三郎はあまりに泣くもんで、鼻水がびよーんと垂れ下がり、息を吸い込むたびに、ひょこっ、ひょこっ、と出たり入ったり。
その顔が可笑しくて、民治丸はついに笑ってしまった。

「なんですか、民治丸。こんなときに」

いさめる菅野もまた、泣き笑いの顔だ。
永禄2年、春──。
民治丸あらため、林崎甚助重信の仇討ちの旅はこうして始まった。

(つづく)