居合だましい

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第38話 第四章『出立』

旅立ちの日は、抜けるような青空となった。
春の日差しは目にも柔らかで、必然、足取りは軽い。
出立前、なるべく均衡きんこうになるように工夫して、体中に縛りつけた荷物の重みも、今は心地良く感じている甚助じんすけであった。

(本願成就させ、再びこの地を踏む!)

朝日を受けて輝く甑岳こしきだけを目に焼き付け、甚助は一心に進んだ。
今日のうちに霞ヶ城(山形城)の城下町まで辿り着き、明日は進路を東へとり、一気に峠を越え、奥州街道に出るつもりだ。
寿太郎が言うには、京までの道中、最初の難関がその峠。
雪解けがどこまで進んでいるかも心配だ。
「絶対に無理はするな、旅に焦りは禁物である」と、口を酸っぱく言われたが、好天に後押しされたこともあり、甚助は何の迷いもなく強気だった。

はじめて林崎村の外に出た甚助には、見るもの聞くもの、すべてが新鮮だった。
一日分歩いただけなのに、使う言葉も、食べているものも、微妙に違っている。
このまま京の近くまで出たら、いったいどれほど驚くことになるのだろうと甚助は思う。
急な旅立ちだったにも関わらず、寿太郎のおかげで旅の備えも十分である。
自分でも知らずに高揚しているのか、城下町で過ごす最初の晩は、朝までうつらうつらするばかりで深くは眠れなかった。
それでも疲れは感じていない。
翌朝、甚助はさっそく山越えを始めた。

空は今日も晴れていた。
だが、雲の流れは昨日よりずっと早い。
城下町を歩く人々が、空を指差し「荒れそうだな」と話す声を聞いても、「こんなところでもう一日潰したくはない」と、ためらいもせず峠道に入った。
やはり、山道に入ると残雪が目につくようになる。
上るごとに雪の量は増え、ぬかるんだ道より、雪の上をあえて歩いた。
一刻(約2時間)ほど歩いただろうか。
急に空が陰ってきたと思ったら、雨粒が降りてきた。

「まずいな」

どこか大木の陰で雨宿りしようか迷ったが、通り雨にも思えない。
少しでも先に進むことを選んだ。
もとより野宿は覚悟の上だが、雪の残る峠で、しかも雨に濡れた体を横たえることは危険すぎるだろう。
出立の日から二日目で早くも直面した命の危険に、甚助は天を仰ぎ唸った。
この山には今、応えてくれる鳥さえいない。

「まずい! ……まずいぞ!」

誰に言うともなく声を出し、先を急ぐ。
日暮れでもないのに、空は真っ暗になっていた。
雨粒はどんどん大きくなる。
大粒の雨を受け、道とも呼べぬ道を進んでいたとき、ふと、鼻腔をかすめる人工的な匂いがあった。
森には不似合いな、この匂い……。

(これは……線香か?)

百日参籠ひゃくにちさんろう以後、体の色んな感覚が人一倍鋭くなった甚助である。
その後の、寿太郎の鍛錬のせいもあるのだろう。
とくに匂いには敏感になっていて、人の感情や、危険なこと、反対に優しさや好意にも匂いがあることを発見した甚助である。
今もかすかな人の気配……いや、人の感情らしきものを、こんな雨の中でも感じ取ったのだ。

目を凝らすと、雨に煙る木立の先に、明らかに獣道とは違う小道があった。
誰かが踏んだであろう小道を辿っていくと、奥に小さな鳥居が見えた。
ひっそりと隠れるように立つ、それは小さな寺だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

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(助かった!)

一目散に駆け込み、肩で息をつく。
確かに、中から人の気配がする。

「もし! ごめんください! もし!」

ドンドンと木戸を叩くも、応答はない。
二度三度繰り返し、あきらめて軒下にしゃがみかけたとき、木戸が少しだけ開いた。
顔を覗かせたのは、年若きあまさんだった。

「すみません、少し雨宿りをさせてもらえませんか?」

尼さんは困ったように眉を下げ、ただ黙っている。
そうしている間にも、甚助の体は冷え、寒さに歯がカタカタと鳴った。

「怪しい者ではございません。林崎甚助重信……ここより北へ15里(約60キロ)ほど行った先の村から来ました」

甚助の必死の訴えも、聞こえているのか、いないのか、尼さんは眉を下げるばかりで何も答えない。

「故あって、京に向かっております。今日中に白石宿まで辿り着こうと思っていたのですが……この雨で」

「……困っておられるのですね」

雨音にかき消されそうなほど小さな声で尼さんは言った。

「ですが……あなたさまを中へお通しすることはできません。ここは……男子禁制の尼寺なのです」

「尼寺!?」

尼さんの戸惑いをようやく理解した甚助であった。

「わかりました。……あいすみません。では、少しの間、この軒先をお貸しください」

「はい……申し訳ありません……」

いっそう眉を下げ、尼さんは言った。
だが意外とあっさりと木戸は閉まり、甚助は再び一人になった。
それにしても、こんな山奥に寺とは。
世の中には知らないことがたくさんあるものだと甚助は思う。
ふと、視線を感じ、振り返る。
誰の姿も見えぬのに、なぜか、いくつもの目玉に覗かれているような気がした。
こも(むしろ)をかぶり、身を縮める。
すでに体はびしょ濡れで、かぶったところで、ほんの気休めにしかならないのだが。

(ここで一晩過ごしたら……凍え死ぬかもしれない。それでも、中には入れてもらえぬのだろうな)

ほどなく、甚助は立ち上がった。
旅は始まったばかりなのだ。こんなところでつまづいている場合ではない。
とにかく、前へ進まねば。

(日暮れまで、あと半日あるかどうか……。とにかく、急ごう)

お日様がまるで見えないせいで、ときの感覚がおかしくなっている。
体中に縛りつけられた荷物が、水気を帯び、ぐんぐん重くなっていく。
この場にぜんぶ捨ておき、走り出したくなる気持ちを、甚助は必死にこらえた。
「絶対に無理はするな、旅に焦りは禁物である」そう言った寿太郎の顔が浮かぶ。
歯を食いしばり、甚助はまた一歩、足を前へ運んだ。

(つづく)