居合だましい

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第41話 第四章『出立』

あれからどこをどうやって歩いたのだろう。
山を越え、今宵の宿にと考えていた貝田宿も過ぎ、気が付けば日はとうに暮れていた。
それでも甚助は、歩くのをやめない。

不思議なことだが、空腹も、乾きも、感じなかった。
疲れも、重だるさも、なぜか消えている。
耳の奥がわんわんと鳴り、音がよく聞こえなかった。
色んな感覚が鈍くなっているのかもしれない。
ただ、微熱だけが、まとわりつくように甚助の体を覆っていた。

(俺は、人を、った。見知らぬ人をこの手で……)

同じ言葉が、ぐるぐると頭の中を回っている。
歩いても、歩いても、消えてはくれないのだ。

一連の出来事を、母上さまはなんと思うだろうか。
自分が無事であったことを喜んでくれるだろうか。

神主さまはなんと言うだろうか。
明神さまから授かった抜刀術が、やはり必殺の剣であったことを喜ぶだろうか。

寿太郎さまは?
りんは?
不意打ちを食らっても敵の攻撃をかわせたことを鍛錬の成果だと喜んでくれるだろうか。
強引な峠越えの決断を怒るだろうか。

三郎は……。
父上さまは……。
新太郎ならどうした?
刑部さまなら……。

生きている者、亡くなった者、林崎村で出会ってきた皆の顔がひとりひとり浮かぶ。
林崎甚助という名は、林崎の村をはなはだしく助ける者の意だと、あのとき神主は言った。
この村が、おぬしを助けもする、とも。
だとしたら今、助けて欲しい。
このどうしようもない胸の内を、情けなくて涙が出そうな心持ちを、誰かと話がしたかった。
だが今、それは叶わない。
甚助はどこまでも孤独で、一人ぼっちなのだ。

──いいか、忘れるな。お主の根っこはここに繋がっておるのだからな。

だとしたら……
お前は正しい、よくやった、と褒めてもらいたい。
大丈夫ですよ、ここで一緒にかゆでも食べましょう、と励ましてもらいたい。
寒いだろう、さぁここで暖まりなされ、と誘ってもらいたい。

甚助の目から涙が溢れ、頬を伝った。
そうしてようやく、甚助は歩みを止めた。
乱暴に頬を拭い、天を仰ぐ。
辺りはもう、真っ暗だった。
だが、今宵の月は、いくぶん温かく見える。

(母上さまも見ているかもなぁ)

そう思ったら、また涙が溢れた。
甚助はもう、拭いはしなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……もし、お侍さま?」

艶のある声にドキリとし、ふりかえる。
月明かりに照らされていたのは色っぽい女だった。
歳のころは三十路ぐらいだろうか。
手には三味線の包みを抱えているようだ。

「あの……すみません……何かお困りではないですか?」

女に顔を覗き込まれ、急に恥ずかしくなる。
甚助は視線を逸らし、答えた。

「なんでもございません」

「でも……お目元から」

「いや、なに、道中、賊に襲われてしまって。少し、左目に土が入ってしまいました」

「まぁ、それは大変! 他にお怪我は?」

「大事ありません」

「今宵のお宿はお決まりですか?」

「いや……それはまだ」

「ぜひうちにお寄りください。さぁ、こちらです」

女が示したほうを見ると、遠くに提灯の明かりが揺れていた。
女は強引だった。
導かれた宿は、間口が五間ごけんもある大きなお屋敷だった。
どこかで宴会も行われているらしく、ずいぶんと賑やかだ。
甚助が暖簾のれんをくぐると、すぐさま番頭が顔を出し、女に手洗い桶を持ってこさせた。
おまち、と呼ばれたその女は、なんともいえない甘い匂いがした。
これが化粧の匂いなのだろうか。

「騒がしくて申し訳ありません。生憎あいにく、大部屋しか空いてませぬが、よろしいですか」

「かまいません。一晩、お世話になります」

案内された大部屋で、甚助は早々に横になった。
荷物もほとんど縛りつけたままで、担いできた“こも”をかぶる。
刀は両足に挟んで、抱きかかえるようにして目を閉じた。
誰かが何か話しかけたようにも思うが、甚助は一言も言葉を発しなかった。
どこかから、三味線の音がして、ときおり男と女の嬌声きょうせいが上がった。
おまちが奏でているのだろうか。

血の匂いがする。
ここは夢の中なのか、それとも……。
眠っているような、そうでないような、生ぬるいまどろみの中で、甚助は必死に誰かと戦っていた。
黒い影はどんどん巨大になり、人とは思えぬ速さで空に舞い上がった。
上から飛び掛かられて、甚助は思わず刀を抜いた。
抜きざまの、たった一太刀……黒い影の腹はぱっくりと割れ、なぜか真っ赤な血がどろどろと吹き出した。
甚助は悲鳴を上げ、飛び起きる。
同室の者たちが、迷惑そうに唸ったが、構うものではない。
全身、汗でびっしょりと濡れていた。

(夢、か。 ……いや、夢ではない。この手にまだ、感触が残っている)

それから甚助は、朝まで一睡もできなかった。
もう三味線の音もない。
話しかける人間もなく、息苦しさに胸が詰まる。
ただ、水がのみたかった。
今、外に出たら、怪しい者だと思われるだろうか。
構うものか。
甚助はそっと障子を開け、廊下に出た。
その手には、しっかりと信国がある。
どんなに苦しくても、叫び出したくても、こいつとだけは離れるわけにいかないのだ。

(つづく)