居合だましい

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第42話 第四章『出立』

甚助は、建物の裏手に回り、勝手に井戸から水を汲んで飲んだ。
奥を覗き声も掛けてみたが、下女の姿も見当たらない。
至るところで人々の寝入る気配がしていた。
いま何時なんどきかは分からないが、きっと夜も深いのだろう。

もう一度眠るつもりはなかった。
だから甚助は、月明かりの下、一心不乱に信国のぶくにを振った。
こうしていれば、ときは迷いなく過ぎていくことを甚助は知っている。
ひゅんっ、ひゅんっと夜の冷気を裂く音が裏庭に響いた。
若くしなやかな肉体に、あっという間に汗がにじんでゆく。

「ふふ、無粋ぶすいな御方ですこと」

声に驚き、振り返る。
なじるような、それでいて甘えるような声色は、この宿に自分を導いた女、おまちだった。
その手に三味線はなく、髪も少し乱れている。
眠っていたのかもしれない。
それにしても、いつの間に居たのか。
気配をまったく感じ取れなかったことに甚助は動揺していた。
昨日の出来事をまだ引きずっている自分を認めたくはない。
だが、やはり色んな感覚がおかしいままなのだろう。
甚助が信国を腰に収めるのを見届けると、おまちはすぐ傍まで近づいてきた。
そして乱れた髪を指ですくい上げながら言ったのだ。

「このように月が綺麗なよいに、物騒なものを振り回して」

「起こしてしまったようで。申し訳ねぇです」

甚助は素直に詫びた。
皆の眠りの妨げにならぬよう気を付けて続けます、そう返したときだった。

「眠れないのですね」

おまちはいっそう近づき、覗き込むように甚助の目を見た。
答えずにいると、おまちは甚助の手を取った。
そのまま引き込むように、奥の部屋へと導く。
どこへ行くのか尋ねようとした甚助の口を、おまちの人差し指が塞いだ。
おまちは廊下を猫のように進み、一番奥の戸の前で止まった。
そこは納戸のような小さな部屋だった。
夜目を凝らすと、壁際に布団がたくさん積んであるのが分かる。
甚助を中へ押し込み、後ろ手に戸を閉めたおまちは、そのまま抱きついてきた。
声を上げようとした甚助の口を、今度はおまちの唇が塞いだ。
あっという間だった。
とたん、道で最初に声を掛けられた時の、あの甘い匂いがする。
柔らかな体を、ぎゅんっと押し付けられて、甚助は固まってしまった。
はねつけようにも、華奢な女の体は壊れてしまいそうで、乱暴にできない。
これまで触れたことがないものに迫られ、頭は混乱する一方……甚助はどうしていいのか分からない。
そうしている間にも、おまちは自ら帯を解いていく。
あとはもう、されるがままの甚助であった。


目を覚ますと、おまちの姿は無い。
あの甘い匂いだけを残し、夢のごとく消えていた。
戸の隙間から差し込む光を見ると、もう夜は開けてしまったらしい。
慌てて起き上がり、身なりを整えていて、甚助はハッとする。
体に置きつけておいた路銀が見当たらないのだ。
だがすぐに、もっと恐ろしいことに思い至る。

(刀! ──信国のぶくには?!)
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甚助は体面も気にせず戸を開け放つ。
薄暗い部屋の中に光を入れ、一心不乱に布団をめくっていった。
下女たちが何事かと集まってきても、甚助はかまわず探し物を続けた。
しばしの後、散乱した布団の中で、かつんと固いものに行き当たる。
夢中で掴むと、それはまさに刀であった。

「──あった! あぁ、あった……」

その場にへたり込んでしまった甚助を、たくさんの好奇の目が見ている。
ほどなく、どうしようもない羞恥心が襲った。

「やられましたな」

宿の主人はまるで他人事のように言った。
腹立たしさと気恥ずかしさで、甚助は震える思いだ。
おまちと呼ばれたその女は、煙のように消えてしまい、誰も、素性も行方も知らないという。
そもそもふらりと現れ、三晩ほど滞在し、夜になると他の客の宴席に顔を出しては三味線を弾いていたそうだ。
客の評判もすこぶる良く、宿の主人は「このままうちにいておくれ」と誘ったところだったとか。

「今になって思えば、羽振りの良いカモを探していたのでしょうな」

「……カモ……」

怒りを隠さず、宿の主人を睨む。
だが、それ以上責めることはできないのが悔しかった。
自分の勘違いとはいえ、甚助は女がこの宿に縁のあるものだとすっかり信じていた。
まさか、自分がカモにされようとは。
宿の主人は、さすがに気の毒に思ってくれたのか、宿代は要らないと言ってくれた。
払えと言われたところで、金は無い。
いや、あと少し、もしものためにと分けておいた分の金は風呂敷の中に残っているのだが、そのことは黙っておく。
とにかく、このままでは京まで辿り着けないことは確かだ。
甚助は宿の主人に見送られ、ふたたび奥州街道を歩き出した。
だが、一足ごとに気は滅入っていく。

(なんとかしなければ……)

母上様が爪に火を点すようにして貯めてきた金を、一夜にして無くしてしまった。
その愚かさに、地団駄を踏む。

(なぜ、あんな女に引っかかってしまったのか……)

元をただせば、人を斬ったあのときから何かがおかしかったのかもしれない。

(しっかりしろ! こんなことでどうする?!)

甚助は自分でじぶんを叱責しっせきした。

(よく考えろ! 刀は……一番大切な信国は残ったではないか!)

ふと、昨夜、女と交わした言葉が甦る。
夢かうつつか、いまとなっては自信がないが、たしか女はこう言ったのだ。
「ご本懐ほんかいげられますよう、祈ってます」と。
女に、仇討あだうちの話をした覚えはない。
肌を合わせるうちに女には何かが伝わったのだろうか。
だとしたら、女とは実に不思議な生き物だ。
おまちには、どこまでも深い沼のような怖さと、懐かしいような温かさがあった。
盗もうと思えば盗めたであろう信国を、おまちは、あえて置いていったのだ。
吐息交じりのあの言葉……ご本懐を遂げられますよう……あれは本心ではなかろうか。
そう思った瞬間、つい、笑いがこみ上げる。
ここにきて、まだ人を信用しているとは。
愚かしいとは思いつつ、そんな自分に救われもする甚助である。

林崎の家を出てから、ここ数日、目まぐるしく変わる環境に、頭が追いつけないでいるのかもしれない。
今こそ、修行の道。
明神の森で鍛錬したときのように、一日、一日、一太刀、一太刀、先に進むしかないのだ。
幸いなことに空は青く、暑さも寒さも感じない。爽やかな好天だ。
一足、南西に進むごとに、風も柔らかくなっていく。
木々の芽吹きの力強い匂いがする。

(──そうだ。もう一度、初めからやり直しだ)

甚助は、しっかりと草鞋の紐を結び直す。
目指すは、京。
父の仇、坂上主膳に会うまで、何があっても歩みを止めるわけには行かない甚助である。

(つづく)